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  2. 福間師範 日常茶飯事 第一話

2016年春号和風・掲載

【はじめに】
 茶会とはお客様を自宅にお招きして、食事をし、お茶を喫していただくおもてなしのことを言います。上田宗箇流では入門された折、「上田流茶事稽古順次」をお家元より入門の伝書と同時にいただきます。それを開いてみますと、薄茶のことから真之台子乱飾のことまで、お点前のことが書いてあります。これは茶会をする種々の手段が書いてあるわけです。自分がお客様をお招きする場合、お客として招かれる場合、と想定しながら稽古に臨むことは大切なことです。
 最近は、デパートや公共機関などで道具を持ち出して開催する茶会が一般的になってきました。茶会の内容も高価なお道具を使う、数々の懐石料理を出す、などとハードルがどんどん高くなっているような気がします。しかし利休は『南方録』の中で、「茶の湯のすべては仏道から出ているのであり、自分で薪を取り、水から湯を沸かし、まず仏に供えよ。そして自分も飲み、人が来たら人にも分け与えよ。これが茶の湯だ」という意味のことを言っています。
 流祖上田宗箇も茶の湯を好み、「楽しむところは清静にあり」と言われています。これから、お茶会をしてお客様をお招きすることを日常茶飯事のように出来るよう、皆さんと一緒に考えていきましょう。

【飲む?食べる?】
 日本では数多くのお茶を飲むことができます。煎茶、玉露、麦茶、番茶(ほうじ茶)、ウーロン茶、紅茶などなど。さて、抹茶と飲み方の大きな違いに気がつかれましたか?
 それでは一例として番茶と抹茶の入れ方を考えてみましょう。番茶はまず湯を沸かします。急須に番茶(茶葉)を入れ、沸かした湯を注ぎます。それを湯呑に入れて飲みます。抹茶は湯を沸かし、茶碗の中に抹茶(茶の葉を粉末にしたもの)を入れ、沸かした湯を注ぎ、茶筅でかくはんしてそれを飲みます。
 気がつかれましたね。一般的な茶は茶葉を煮出した汁を飲み、抹茶は茶葉を直接体内に取り込む、簡単に言うと「抹茶を食べる」のです。これが飲み方の大きな違いです。

【薬として日本に】
 さて、抹茶法というお茶の飲み方は昔から日本にあった独自の風習と思われている方が多いと思いますが、実は鎌倉時代、禅宗とともに中国から伝わりました。当時は薬として伝わり「良薬口に苦し」という言葉が残っています。茶の種を持ち帰った栄西は臨済宗を中国で修行し、禅僧の寺院にて茶礼として飲まれていた抹茶法を、それに使用する道具と一緒に持ち帰りました。抹茶法は宋の時代、文人の間で流行した茶の飲み方と言われています。栄西は『喫茶養生法』を記し、日本で初めて茶の効能や飲み方を紹介しました。
 面白いエピソードをひとつ。鎌倉三代将軍源実朝は、ある日頭痛がして大変だった折(二日酔いとも言われています)、栄西が献じた茶を飲み、頭痛がすぐに治ったといいます。この部分だけを聞くともっと男性の茶人が増えても良いのですが…。それ以来実朝は茶を身体に良い飲み物として服用するようになり、日本人の間にも茶を飲む風習が広まったと言われています。
 栄西は鎌倉に行く途中、京都に立ち寄り、明恵上人に茶の種を差し上げます。明恵上人は種を栂尾に植えます。茶は高温多湿であれば比較的栽培しやすい植物のようで、京都はその条件に適しており大変良質な茶が採れるようになります。当時は、武士の間で薬として飲まれたお茶、もう一方で禅宗の寺院で茶礼として飲まれたお茶と、この大きな柱があったわけです。

【「闘茶」「一服一銭」】
 日本の全土でお茶が採れるようになると良質な茶葉(本茶)とそうでない茶(非茶)を飲み比べる風習が武士や公家の間で流行します。また、飲み比べは賭け事にもなりました。飲み比べに莫大な賞品を用意して競い、「闘茶」と言われました(現在でも流儀により「茶カブキ」といって茶銘を当てる点前作法が残っています)。この闘茶の名人として佐々木道誉という武士が有名ですが、彼らのことを「バサラ大名」と言っていたようです。
 闘茶が流行し、世の中が乱れてきたために幕府は禁止令をたびたび出したようです。現在でも「滅茶苦茶」「茶目気」という言葉が残っています。この頃、庶民の間でも「一服一銭」と言って茶が商売とされ、茶を飲む風習が普及してきたようです。
 室町将軍足利義政が登場して、能、花道、茶道などの日本の伝統文化を体系化し、「同朋衆」と相談をして書院の座敷飾りを制定しました。彼は将軍としての政治的手腕はあまりなかったようですが、文化面では大変に貢献した将軍でした。ある時、義政は、同朋衆に村田珠光を紹介されます。珠光は称名寺の僧で、大徳寺の一休禅師に参禅をし、禅を修行します。禅をおさめた証として南宋の禅僧、円悟克勤の法語をいただきます。珠光はそれを掛物に仕立てて自分の茶室に掛けて一休を偲びながらひたすら茶の湯をしたと言われています。ここに茶の湯に精神面を問うた「わび茶」が芽生えたと言われています。
 この後、ご存じのとおり時代は安土桃山時代となり、下克上の世になり、織田信長、豊臣秀吉などの天下人、町衆では堺衆の力が大きくなり茶の湯も時代とともに変遷していきます。
 さて次回は茶事についてひもといてまいりましょう。お楽しみに!


順番に稽古の内容を記した「上田流茶事稽古順次」

濃茶点前。茶入から茶碗にたっぷりお茶が入れられます。

お客様に薄茶を点てて出し、服加減を伺います。

神仏に茶を捧げたり、貴人に茶を点てたりすることが献茶です。天目茶碗を用い、天目台という台に載せて使います。

八十八夜に摘んだ新茶を壺に入れて熟成させ、立冬の頃、茶壺の口封を切って葉茶を取出し、茶臼で挽いて使い始めます。これを「口切り」といいます。