茶道とは、、、
- HOME
- 茶道とは、、、
お茶の木
◆お茶は中国から渡ってきたもので、今から約一二〇〇年前、奈良時代に遣唐使や中国から来朝した僧侶などによって、喫茶の風習が日本に伝えられたものです。平安時代になって、桓武天皇の延暦二十四年(805)に、伝教大師が唐から帰朝の際に茶の実を携え帰り、叡山のふもと、滋賀県坂本にこれを植えたのが日本で最初の茶の木でした。当時は貴族や僧侶などの極く限られた範囲の人だけが、舶来の高級飲料として茶を飲んだもので、もともと漢詩文に伴う文人趣味として愛好されたものですから、一般庶民階級とは凡そ無縁のものでありました。
平安朝末期、宋の時代となって最初に入宋した栄西禅師は臨済宗の教えを学んで、建久二年(1181)に帰国し、福岡県背振山に持ち帰った茶の実を植えました。栄西は時の将軍源頼家の庇護によって京都の建仁寺の開山となりましたが、彼が京都に落ち着いて、茶の実を京都栂尾にある高山寺の明恵上人に送ったところ、明恵はうまく茶の試植に成功、さらに宇治に移植して、今日の宇治茶の礎をひらきました。そして宇治茶はさらに次々と全国各地に移植されてゆきました。
建保二年(1214)、時の将軍源実朝が病気になった際、栄西が抹茶と自身の記した「喫茶養生記」を献上したところ、実朝は快方に向かったのを喜んで抹茶の方法を大いに礼讃したといわれています。そして抹茶は新来の妙薬として次第に普及し、栄西は広く喫茶をすすめると共に日本における茶の栽培の祖となりました。
喫茶の流行にしたがい、それに用いる器物も、いわゆる「唐物茶器(からものちゃき)」として中国から輸入されました。後に栄西が鎌倉に移ってからは、先ず禅宗と関係の深かった武家階級へ普及し、そして室町時代の初期になってからは次第に一般にも流行していったようです。庶民階級は街角で一服一銭の立ち売り茶を飲んでいましたが、武家階級では、闘茶または茶寄合と称して、産地の異なる幾種類もの茶を喫み分け、これに賞品を賭ける事が行われました。この闘茶は当時抹茶という舶来の珍薬を用いた賭け事遊技で、公家、武家、のちには庶民階級にも大いに流行しました。しかし室町時代の中頃以降、闘茶は次第にすたれていき、茶という文化は日本伝統の風土や連歌などの影響をうけて風流なものへと進展していきました。
●協力●
宇治園製茶 / http://www.nipponchabar-uzi.com/
茶道創世記の四大茶人
◆現在の茶の湯を語る上で、
欠かすことのできない
非常に重要な役割を果たした
四人の人物について触れて
おきたいと思います。
時代と共に変化し、なお現在も
変化を続けつつ連綿と続いていく
茶の湯の文化の根元をたどり茶道の
確立への道筋を見てみましょう。
- 村田珠光 (1422~1502)
- 武野紹鴎 (1502~1555)
- 千利休 (1522~1592)
- 古田織部 (1554~1615)
村田珠光 (1422~1502)
◆八代将軍足利義政は政務を離れて、風流三昧に遊び、五山の僧や同朋衆と共に趣味の世界を楽しんだのですが、銀閣寺に隠居してからは毎日のように、連歌、月見、花見、鞠など様々の催事に明け暮れていました。そんな生活の中で、義政は能阿弥のすすめによって、大徳寺の一休宗純和尚に参禅していた村田珠光を召し出すことになり、珠光について茶の湯を習いました。珠光は参禅して、仏法も茶の湯の中にあると悟り、茶儀の形式を更に一歩進めて茶人の心の問題に重きをおいて改革を志しました。そして、茶室や道具を改良し新しい創造を加えていきました。書院の広間に変わって、銀閣寺の東求堂の如く四畳半の狭い茶室で簡素な茶の湯を行うなど、日本的な茶道確立への第一歩を踏み出しました。珠光は京都の六条堀川辺に草庵をむすび、文亀二年八十一歳で亡くなったのですが、彼の理想とする台子の茶の湯から草庵の茶の湯への変革の完成は次の世代に委ねることになったものの、日本的茶道の創始者としての功績は大きく、〝茶の湯の開山〟と称されています。
武野紹鴎 (1502~1555)
◆武野紹鴎は、茶の湯は珠光の弟子の宗陳、宗悟に師事したといわれますが、禅は堺の南宗寺の開山普通国師に参禅して一閑斎と号し、また京都に居を構えては大黒庵と称しました。 紹鴎は珠光流の茶をより一層簡素なものに改めました。銀閣寺の東求堂は四畳半で、将軍義政の茶室としては簡素でこそあれ、なお書院としての豪華さが窺えますが、 紹鴎は簡素な建物に囲炉裏を切って、瀬戸や信楽など国焼の茶器を使用して、台子の茶の湯から完全に侘びの茶への脱皮を行いました。すなわち、高価な器具、山海の珍味を並べた豪華絢爛を極めた茶から、とぼしきに満足して楽しむ茶へ、いわゆる「侘びの茶」としての茶の心を説いて、彼によって茶の湯は益々その精神的な深みが加えられました。
※紹鴎の”鴎”の字はシステムの関係上、略字になっております。ご了承ください。
千利休 (1522~1592)
◆ 大永二年 (1522) 、泉州堺の今市に生まれ、幼い頃から茶に親しんだ利休は、十七歳の時から北向道陳に師事して正式に茶を学びました。十九歳の時に道陳の紹介で紹鴎の門に入り、珠光や紹鴎の先例にならって大徳寺の大林和尚に参禅して剃髪しました。紹鴎が死に至るまでの十五年間、利休は紹鴎に師事しましたが、その間、大徳寺の春屋宗園、古渓宗陳などについて禅の修行を続けて、茶道精神の把握につとめました。
元亀元年 (1570) から天正元年 (1573) までは、織田信長に召されて茶匠として仕え、天正十年 (1582) に信長が本能寺にたおれてからは豊臣秀吉に仕え、三千石を与えられました。秀吉は当時の茶の湯の最大の庇護者であり、京都山崎の待庵や大坂城山里丸に山里の数寄屋が建てられました。戦国の世で荒れた武士の心を和らげ、社会秩序を回復する目的として茶道を大いに行った秀吉は、自身も利休に茶を学び、九州征伐、小田原陣など、秀吉のゆくところには必ず利休を随行させ、戦火の中で茶を点てました。
利休は茶禅一味の茶の湯の実践に努め、簡素な生活の中に敬虔な心を以て茶の湯を行うことを教えました。
さらに利休は茶道具にも種々な改革を加えました。中国渡来の茶器を珍重する風習を破って、国産の器物を以てこれに変えました。茶碗は長次郎に命じて新しく自分の創意により造らせました。これが楽焼です。魚屋が使用していた茶碗とか、漁師が腰に下げていた魚籠などの雑器具類も茶碗や茶器に利用出来ることを教え、また食事についても、禅僧の懐石を基本にしました。これらは利休が説いた茶の心に通じるもので、珠光、紹鴎に始まった草庵のわび茶を一段と完成させたものです。利休は、天正十九年、秀吉の勘気を蒙って切腹を命ぜられ、七十歳の生涯を終わりました。
利休に学んだ多くの武将茶人の中から、利休の死後、古田織部の名声が大いに揚がり、茶の湯名人と呼ばれました。
(利休瀬戸茶入)
※利休瀬戸とは、利休時代もしくはそれ以前の瀬戸の茶入を指すため、必ずしも直接利休が関わったわけではない
古田織部 (1554~1615)
◆美濃国に生まれ、左介景安、のち諱を重然。初めは斉藤氏に属していましたが、信長の美濃攻略時に父、重定とともに信長に従いました。ついで秀吉に仕え、天正十三年 (1585) 、連戦の功により従五位下織部正に叙任、山城国西岡三万五千石を与えられました。秀吉のお咄衆となっていた織部は、秀吉が没した慶長三年 (1598) 、所領を世嗣山城守重広に譲り、自身は重広の遺領三千石をついで隠居、翌年慶長四年には、大徳寺百十一世春屋宗園に参禅して「金甫」の道号を授かりました。
織部が催した茶会の初見は、「津田宗及茶湯日記」にある天正十三年 (1585) 二月十三日の朝会で、客は住吉屋宗無と津田宗及の二人、名物道具ではなくて質素な道具が使われています。利休は織部を高く評価していて、細川三斎から「将来誰が天下の茶の湯指南になるでしょうか?」と問われて、恐らくそれは織部だろうと答えています。利休が処刑された後、秀吉から、利休の町人衆の茶式を武家の好みに合う茶式に改革せよと命ぜられたようです。堺の茶人達は次第にその表舞台から姿を消し、武将茶人が活躍する時代が始まります。天下統一がなされて戦乱の世がひとまず終わり、文化的な面でも武士が主導的立場に立つ時代になっていきました。そして織部は、徳川二代将軍秀忠に台子茶の湯を伝授することになります。
利休が静中に美を求めたのに対して、織部は動中に美を求めましたが、利休から学んだ「作意」をいかんなく発揮し、草の数寄屋に書院式の明かりを取り入れたり、数寄屋だけではなく、今日の広間にあたる鎖之間(一年中鎖を吊す)を考案しました。道具に関しては沓形茶碗や瀬戸黒茶碗などに見られるように多種多様な好みを創生しました。また懐石道具においても、異国趣味を取り入れ、豪放な桃山風の模様を大胆に扱って、知られる通りこれは織部焼と呼ばれて大いに時代に持て囃されるところとなりました。織部は利休によって完成された草の小座敷の茶の湯を乗り越えて、武将好の桃山美術に見られる豊かな色彩と、キリシタン文様に代表される異国趣味を自由自在に駆使してこれを茶の湯の世界に表現し、〝利休亡きあとの名人は織部〟という名声を不動のものとしました。そしてこの織部の茶の湯は、上田宗箇、小堀遠州、本阿弥光悦等に受け継がれていきます。
(古田織部書状 上田宗箇宛)