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初代 重安・宗箇(しげやす・そうこ)

二代 重政(しげまさ)


二代上田重政作 竹花生


二代重政作 竹茶杓

 慶長12年(1607)、紀州和歌山城下に生まれた。宗箇の次男。兄主殿助重秀が5000石の旗本として幕下に召し出されたため、広島上田家2代となった。
 天草の乱に従軍。父宗箇に直接茶の湯を習い、花生・茶杓その他、手ずから作った茶器で今日に伝えるものも多い。
 慶安3年(1650)4月10日没。享年44歳。

三代 重次(しげつぐ)

 重政の息子。幼名は宗箇と同じ佐太郎。幼児期は幕府の命により江戸の藩邸にて過ごす。慶安3年(1650)、父重政・祖父宗箇が相次いで亡くなったため、20歳で家督職封を継いだ。公務でたびたび江戸・京都を往復するなど極めて多忙な年月を過ごした。
 将軍家綱に4度お目見え。宗箇の孫として格別の扱いを受けると古文書にある。
 元禄2年(1689)6月5日没。享年60歳。

四代 重羽(しげのぶ)


四代重羽作 御庭焼菱形水指


四代重羽作 竹茶杓


四代重羽作 竹花生


四代重羽作 御庭焼獅子香炉

 重次の息子。はじめ重之なたは重矩と称したが、のち重羽と改めた。幼児期は幕府の命により江戸の藩邸にて過ごした。4代までは、宗箇の遺風が伝わり。大名扱いを受けた。江戸と国元広島を再々往来しており、藩命により江戸城吹上御殿助造の総奉行も務める。
 元禄14年に起こった赤穂事件では、鎮撫のため家臣を赤穂に派遣した。
茶の湯の造形が深く、花生・茶杓等その製作にかかるものが多い。特に製陶の技に長じ、現に上田家に伝えられる獅子置物・水指をはじめ、茶碗など、いかにも元禄の数寄大名らしいおおらかな作行を見せており、数寄者の所蔵にかかるものも多い。沢水と号し、藩の儒臣山名雲厳義方との交遊などでも知られる。
 享保9年(1724)閏4月8日没。享年63歳。

五代 義行(よしゆき)

 幼名彌吉。四代重羽の息子 重舊が亡くなったため、宝永6年(1709)、浅野家から入り養子となった。主計、元喬といったが、享保2年(1717)備前重行と改め、のち義行と称した。
享保9年(1724)6月、重羽の跡を相続。同10年に主水と改めたが、12月14日没。

六代 義従(よしより)

 重羽の庶子で、始め要人といい、五代義行入家後に誕生した。義行嫡子となすべく主命があり、享保11年(1726)2月家督相続、同16年(1731)に元服し主水と改めた。築後100年を経た和風堂を修復し、紀州徳川家の儒臣衹園南海との交遊でも知られる。
元文元年(1736)10月14日没。享年22歳。

七代 義敷(よしのぶ)

 五代義行の実弟である。幼名を富之丞または謙隆といい、のち刑部、主馬と称した。元文元年(1736)上田義従の養子となり、同12月家督を相続し義敷を名乗った。
宝暦2年(1752)10月25日没。享年52歳。

八代 義珍(よしたか)

 上田能登守義當の三男で初め権太郎といった。宝暦2年(1752)本家である広島の上田家に入り養子となり、12月に家督を継いだが、同5年(1755)8月19日、19歳で若没した。

九代 安虎(やすとら)


九代安虎筆 鷹図

 初め友十郎といった。安虎は宝暦年間に藩校の設立に先駆け上田家上屋敷に「講学所」を設け、家臣の教育に力を入れた。自らは絵が巧みで「鷹図」などが遺されている。
 寛政10年(1798)には祖君150年忌を大徳寺三玄院にて、茶事預り中村泰心・野村餘休を担当者とし執り行った。
在任中に山水軒に1回、和風堂に2回の御成りがあった。
 享和2年(1802)5月25日没。

十代 安世・慎斎(やすつぐ・しんさい)


十代安世作 竹茶杓


十代安世筆 一行書 「明日蘆花君自看 慎斎」

 初め幾三郎といった。 天明8年(1788)江戸に赴き帰来。備前また志摩と呼び、さらに主水に改めた。安虎同様文事に関心深く、慎斎と号し、春花秋月良辰佳日には必ず近臣を集め詩を唱和するのを楽しみとした。
 松濤楼を設け、文化サロンを形成し、上田家当主としては家を治める指針として「戒慎録」を著した。
 在任中、下屋敷に3回、和風堂に2回の御成りがあった。
 文政3年(1820)11月4日享年44歳で没。

十一代 安節・松濤(やすとき・しょうとう)

十一代松涛作 庭焼黒茶碗 銘 富貴草


十一代安節作 御庭焼茶碗 銘 筑波根


十一代安節筆 一行書

 初め安定という。文政4年(1821)に家督を相続し、11代当主となった。頼三兄弟(春水、春風、杏坪)とは10代安世以来親しくしており、安節は能楽家でもあった。また、陶芸家千穂平を招き、この時期、盛んに御庭焼が焼かれた。安節は松濤また相懐翁と号し、自らも茶の湯の造詣深く、茶杓や御庭焼の茶碗などに雅味ある作品を遺した。
安節は安政3年(1856)7月1日没。享年50歳。

十二代 安敦・譲翁(やすあつ・じょうおう)


十二代譲翁好 折鶴蒔絵棗


十二代安敦筆 紅葉の歌


十二代譲翁馬上図 江戸時代


十二代譲翁作 竹花生 銘 那くさ

 11代安節の養子となっているが、実は文政2年(1819)10代安世の実子として誕生し、幼名を順之助またはあ志馬允といい、のち馬之信・内記と称した。安政3年(1856)家督を継ぎ、幕末政治混迷の時に国老を務め、征長戦に広島藩先鋒として出兵、また混乱した京都への使いなど、国事に奔走して功績があった。また明治維新後に率先して領地を藩に奉還し、重美・千庫をも名乗ったが、明治3年(1870)剃髪し、山水軒・譲翁と号し、政務からは引退し、茶の湯三昧の生活に入った。
 安敦は、若くして茶の湯に堪能で、弘化2年(1845)に、26歳で、茶事預りの中村泰心より台子皆伝を受けており、嘉永5年(1852)には33歳で「奥義」を著わし、自他会記を記した「雅遊謾録」も遺している。また上田家に伝えられた道具類の整理などに、預り師範と共に精力的にあたり、上田家茶道中興の祖と言われている。また、春舎松陰・蘭亭とも号し、殊に和歌を能くしたことで知られるが、和漢の誉が高かった。
 明治21年(1888)12月26日没。享年69歳。なお、安敦以降神道となり、法名はない。

 

十三代 安靖(やすさだ)

 11代安靖の子で、幼名は亀之助、のち典膳、また亀次郎と改めた。
 明治16年(1883)饒津神社の祀官に補せられ、大坪流馬術、日置流射術及び漢籍洋学を修めた。祖父の勲功により従五位男爵。
 明治40年(1907)2月15日没。享年59歳。

十四代 宗雄・宗翁(むねお・そうおう)


十四代宗翁筆 桜雀図自画賛

 安閑亭宗翁と号した。能書家としてまた稲田素邦に南画を学び、花生、茶杓などにもすぐれた作品を遺している。正三位男爵。饒津神社の宮司も務めた。
 昭和36年(1961)11月18日没。享年78歳。

十五代 元重・宗源(もとしげ・そうげん)


十五代宗源筆 若葉聲

 山水軒宗源と号す。和風堂を復元し、昭和54年に財団法人上田流和風堂を設立した。饒津神社の宮司や厳島神社の名誉宮司もなども務めた。物作りをよくし、書はもちろん、焼物や竹花生、竹茶杓も優れたものを数多く遺している。
 平成6年6月12日没。享年82歳。